土曜日, 4月 04, 2009

すべて客観的な評論は無意味

客観的な主張というのは、「私は~思う」というものが含んでおらず、何か避けている主張だと思う。また、評論が客観的になることはまずあり得ない。個々の主張が重なり合って、初めて多数派と少数派が生まれ、多数派が一般論となる。その中でどちらも属さず、淡々と各派の主張を述べることが完全な客観的な主張となる。テレビで言うなれば、NHKと民放だ。NHKは「こういうことがありました。」とだけ述べる。民放はキャスターやコメンテーターなどがいて、「どう○○さんは思われますか?」「私は~と思いますね」と付け加えることだ。(注:視聴者が情報受けることにおいて、客観的なのであって、あくまで例え)ただ、情報においての根拠を示す際には客観的でなければならなく、だから、すべて客観的な評論は意味がないんじゃないかと思いますね。

なんで、こんなことを今日書いたのか。
私は「劇しん(劇場版クレヨンしんちゃん)」が一時期大好きだったので、クレヨンしんちゃん研究所映画編を読んでみた。「テーマ」と「フィクション」に注目して、良い評論をしているな~とか思っていたのですが、筆者は、読んでいる限り客観的な評論をしたいみたいです。また、道具やあるシーンの類似点を述べた上で、評価していることはちょっといただけないかなと思います。普通そういうものは断片的な特徴であり、長い目で見ると無関係なわけです。つまり、断片的な特徴と作品構成とでは、構成が明らかに上位に立っており、構成によって物語が進んでいきます。よって、断片的な特徴を述べたことで評価することは、ある見方としてはいいのですが、一映画としての評価には弱い根拠じゃないかなと思います。また、興行収入の点で監督を褒めており、これは子供たちの声なき声だと述べていますが、興行収入≠評価にはなりません。その中には映画グッズやパンフレットなども含まれており、まして、観客が多いからと言ってスバラシイ!映画にはなりません。
こんなことを書いていても、筆者の「劇しん」好きはわかりますので、ある程度共感と敬意はあります。

私が「劇しん」を好きになったのは、その中に子供と一緒に見ている大人世代が楽しめる、オトナの要素を含んでいるからです。ハッチポッチステーションのように、親が笑えば、自然と子供も笑う。さらに子供が成長すれば、また再評価される。「劇しん」においては、雲黒斎の野望からオトナ要素が強くなったのではないでしょうか。それからヤキニクロードまでが大体オトナ要素を含んでいると思います。カスカベボーイズも子供っぽさが出てきましたが、まあ見れる感じですね。以降は、完全に子供相手に映画を作っています。子供映画だから当り前なんですが。
一応、今までの「劇しん」は見ていますが、ほとんどこち亀のように惰性で見ています。毎回、期待作ができないかな。と考えながら見てます。

ムトウユージさんはなぜ批判されているかというと、自分だけで脚本をお書きになっていないことが一番じゃないでしょうか。そうしないと、作品の伝えたい真意や雰囲気がわかりずらくなってきます。


あ~本年度映画から5代目監督になりますが、どんなことになるのですかね。
最後に、宮崎駿の作品過程を見ていると、原画は宮崎監督自身が書いているのですが、細かい画は部下が書いているみたいですね。それを監督がチェックしているわけですが、結構、監督がコロコロ変わるクレしんはやりにくいではないかと思います。大塚作画は比較的いいのですが、手書きっぽさが抜けているのですね。クレしんを最初から見てきた者としては、作画崩壊してもいいから、もう一度やってほしいですね。

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